すっかり冬の到来ですね。
今日は、2016年の7月と10月に二回、お二人の先生の研修に参加した時の、
研修報告をさせていただきたいと思います。
7月に、米国人の女性の先生からの研修を受け、研修のテーマは”誕生”でした。
10月には、スイス人の女性の先生から、”人生の終末期を迎えることについて”の研修を受けました。
お二人の先生は、共に、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの施術者です。
生れること、そして、死ぬこと。
対極にある非常に大きなテーマについて、取り組むことで気が付いたこと、
それは、”エンマ様に舌を抜かれる説”の解釈が変わったことでした。
今日は、そのことについて、書いてみたいと思います。
その前に、私は、2002年から、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスを知り、
学んでいますが、現在も、これからも、おそらく、学びは続いていきます。
実際、私が、行っている、”整体” ”根本的回復へ”というものは、
とても広大なクラニオセイクラル・バイオダイナミクスの世界の、ひとつの断片を、
私自身が、対価を頂戴し、自分なりに責任を持って行える、ひとつの職業として、
ひとつのパッケージにしたものであり、
実際のクラニオセイクラル・バイオダイナミクスの世界とは
もっと、もっと、広いものであります。
それは、もっと、大きくて、壮大な、命の世界であり、
この学びは、学んでも学んでも、おそらく終わりがなく、
きっと、まだまだ、これからも、おそらく死ぬまで続いていくのでしょうし、
そして、終わりがないからこそ、面白いと思っています。
***** 7月のテーマ 誕生 *****
誕生とは、まさに、命の神秘ですが、
人の命は、非常に神秘と呼ばれるにふさわしく、
神なる愛が、見事なまでに完璧に受精卵に命を吹き込み、
新たな命を母体に授け、細胞は分裂し、胚子から胎児に変容していきます。
しかし、実際、私たちのその完璧な身体は、
おそらく、全ての人々にと言っても過言ではないほど、
誕生のプロセスにて、トラウマを負うであろうとも、考えられます。
さらには、こちらでも、書いているのですが、
実際、私たちは、神なる愛から命を授かりながらも、
神でもなんでもない、生身の人間同士から、人間を通して、愛を学びながら、
決して、完璧とは言えない、人間から、人間へと、愛を受け続き、
肉体的にも精神的にも、成長と共に、少しずつ進化していくわけです。
私は、このプロセスを、”神が与えた試練”のようであると、例えましたが、
それは、10月の研修に参加して、
その”神が与えた試練”の謎が解けたように思いました。
***** エンマ様に舌を抜かれる説 *****
ところで、エンマ様に舌を抜かれるという話を、ご存じですか?
私も、実際、何が、本当の話か、定かではないのですが、私は、子供の頃からずっと、このように解釈していました。
『人は、死んだ後、良いことをしてきた人は天国に行き、悪いことをしてきた人は地獄に行く。
私達が死ぬ時、エンマ様は私達に、これまで良いことをしてきたのか、悪いことをしてきたのかを聞くが、
もし、悪いことをしてきたのに、良いことをしてきました、と嘘をついたのなら、
エンマ様は、嘘だと見抜き、舌を抜いてしまう。』
この解釈が、実際、あっているのかどうか、わからないのですが、
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの先生から受けた10月の研修の後、
この説の解釈が、少し変化したのです。
***** 10月のテーマ 死 *****
死とは、誕生とは対極のものです。
誕生したばかりの赤ちゃんは、自我を持たず、
周りとの境界線を超えて、愛に満ち溢れていますが、
やはり、その、満ち溢れる愛とは、やがて、限定性を持つようになります。
満ち溢れているものが、欠落した状態になる。
そこには、受精、受胎、胎児期、誕生、生育期と全てのプロセスが関わりあいながら、
無垢な魂が、ひとつの限定された肉体におさまっていくプロセスです。
そして、死とは、その限定された、肉体から離れていくというプロセスです。
エンマ様は、質問をする。そして、嘘をついたら、舌を抜く。のだとしたら、
実際、質問をするのは、エンマ様ではなく、
自分の魂が、自らの自我に、質問をするのかもしれないと、私は解釈しました。
その、最後の質問の内容は、ただ一つ。
「あなたは、愛の何を学んできたのか?」
これが、死に際の最後に、自分の魂が、
自分の自我に問う、最後の自問自答なのではないかと、私は思ったのです。
そして、誕生時期から、おそらくトラウマとして抱えている愛の課題と共に、
数十年の間、肉体を持ってして、何を体験し、一体、愛の何を学んだのか?
その回答こそが、”神が与えた試練”へのファイナルアンサーではないか?
と、私は、感じるようになりました。
そして、嘘をついたら、舌を抜かれるのではなく、
自我とは、肉体の死を目前としながら、
個である自らの肉体を超えた、巨大に広がる大きな命の前で、
決して、嘘は付けないのだと、解釈しました。
そして、肉体に限定されていた、自らの無垢な魂は、その巨大な命の一部である事がわかり、
結局、自分の魂に嘘は付けないということなのかもしれません。
肉体とは、期限付きで私たちと共にいます。
肉体がないと、体験したり、経験することができないので、
経験から、愛を学べること自体が、期限付きである。
ということができます。
肉体が朽ち落ちるのを、前にして、
そして、死を前にして、
私だったら、この質問に、どう答えるのだろう?
私は、愛の何を学んだと言うのだろう?
平和な死を迎えられたら、
そして、愛について、私は十分に体験し、学ぶことができたと感じられたら、
本当に幸せだと思うでしょうが、
そうではなく、後悔、悲しみ、悲嘆に暮れるかもしれません。
***** セラピストとして *****
”死を待つ人の家”を、インドに設立したのは、マザーテレサです。
しかし、残念ながら、私は、マザーテレサのような聖職者ではないので、
”死を待つ人の家”を模範とすることができません。
死にゆく人を、講師として招き、
実際の死に立ち会う事から、多くを学んだのは、エリザベス キューブラー ロス博士です。
しかし、残念ながら、私は、キューブラー博士のような、医師ではないので、
職業として、死に立ち会うことは無いでしょう。
しかし、もし、自分自身が、
朽ちていく肉体を持って、最後の自問自答をする時に、
そして、おそらく自分が、その時、味わうであろう、後悔、悲しみ、悲嘆などの、
すべてを、肉体を通して感じている時に、
もし、そこに、受容的であって、判断することなく、今、ここに存在し、
そして、深い慈悲を持って、ただ寄り添う存在があるのなら、
その、味わいも、全て受け入れることができるかもしれません。
2016年の二回にわたる研修の学びは、
いかに、その存在でいることが、大切か。
という、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの原点に戻るような学びでした。
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中満整体